「いいからそこに座んなよ。」彼は言った。
彼はキャンピングチュアを広げ、腰掛けるよう僕にうながした。
チュアに深く腰を掛け、静かにパイプをくゆらしている一頭の、ーいやー 一人の雄熊(だんせい)。彼の名前は
モンティーヌ=レオナルド=カプリチョス三世。通称"もん太"だ。
彼はそう呼ばれる事を望み、実際皆からそう呼ばれている。
ぼくは、悩みにこそ悩むというような、人生の隘路に陥った時、彼の所を尋ねるのだ。
あたりには焚き火の、懐かしい様な、わくわくするような、あの独特の匂いと、吊るされたクッカーから漂ってくるコーヒーの匂いとが合わさって、冬の冷たい空気と共に、ぼくの胸へ流れ込んでくる。
胸がスーッとすいて、寂しくて心地良い。
素晴らしいオーケストラの演奏を聴き終わった時の感動と、少し似ているかも知れない。
朝の清涼な空気の中で、ぼくたちはしゃべるでもなく、ただ無言で焚き木をくべ、パチパチと爆ぜる音、木々が風にざわめく音。それから、鳥たちの囁きにじっと耳を傾けていた。
「そろそろいい頃だな。コーヒーの滓が溢れてきた。」
そう言うと彼はかぶっていた帽子を使って、焚き火からクッカーをおろし、銀色のカップについで手渡した。
「熱いぞ。」
「ついでに苦い。」
帽子をかぶりながら再びチュアに腰を下ろした彼は、火傷しない様、慎重に、わずかにコーヒーを啜ると
「でも、美味い。」
とにやりと微笑みながら言った。
ぼくも一口コーヒーをすすった。
挽いたばかりのコーヒーの香りが、太陽に照らされて蒸発していく土の匂い、青々とした植物の匂いと入り交じり、深く胸を満たしていく。
豆の甘みが力強く生きた、本物のコーヒーを久しぶりに飲んだ気がする。
「すごく美味いよ。」
ぼくがそう言うと、彼は無言だったし、帽子のつばに隠れて良く見えなかったが、確かに彼はまた、にやりと笑ったと思う。
お互いそうやってしばらく無言でコーヒーをすすりあっていた。
ぼくが何か話そうと、会話を切り出すタイミングを計っていたら、突然、彼は言った。
「楽しいことをしている時が幸福なんじゃない。」
「何もしないことを楽しめる心。どんな時も余裕を持てる、しなやかさこそが幸福を生むのさ。」
「どんなに美味いコーヒーだって、それを注ぐカップがなけりゃ、味わえないだろ?」
一流キャンプ用品メーカー、モンベル。
その、とある東京支店へぼくが行った時、メイン商品の展示された、スチールラックから遠ざかること、10数メートル。
誰もが通り過ぎるだけの通路脇でひっそりと、ほかの商品の影に隠れた彼は、埃をかぶったモンベルのストラップとして、店頭価格700円(確か)くらいで吊るし売りされていた。
はじめて彼を見た感想は、"入口の熊(マスコット)とは似ても似つかない"だった。
正直言って、再現度は低いと思う。
でも、そんなこと関係無い。
一目見た時、ぴんと確信めいて感じるものがあったのだ。
これから、ぼくの相棒になってくれる存在に違い無いと。
決して、せっかく東京のモンベルに来たんだから何か買って帰りたいけど高すぎて彼しか買う金銭的余裕がなかったとか、そういう理由から彼を購入した訳では無い。断じて。
実際彼は、ソロキャンプが趣味だった僕の、最高で特別な相棒になってくれた。いや、彼が来てくれてから"ソロ"では無くなったのだ。
ぼくがキャンプに行く時、彼はいつでも付いてきてくれた。
胸ポケットから、ちょこんと顔を出し、流れる川や焚き火を一緒に眺めていた。
そんな彼も、ポケットの摩擦に耐えられず、おしりの辺りが擦り切れてきたので、なくなく相棒を引退した。
今では庭キャンならぬ、テーブルキャンパーとしてぼくの足下にある衣装ケースの上で、新しい人生を送っている。
彼のことを、キャンプに行きたくても行けない、悶々とした休日に見ると、お気に入りのキャンプチュアに腰掛け、部屋の天井を見つめ続ける彼の目を通して、以前、二人で見上げたあの満点の星空が、ぼくの目にも蘇ってくるのだ。
きょうの晩ご飯は、妻のつくった照り焼きチキンだった。
とても美味しかったです。